Google Analyticsをやめました
導入編→このブログにGoogle Analyticsを導入しました - とわ自由帳
一度Google Analyticsを導入しましたが、やめました。
理由は、個人を特定できすぎて気分が悪いからです。
みなさんお分かりだと思いますが、このブログは閲覧者が極端に少なく、また全部の閲覧がTwitter経由です。フォロワーの皆さんいつもありがとうございます。
この二つの要因と、タイムラインの浮上具合などから、Googleアナリティクスを導入する以前から、誰が見ているのかはある程度把握できるようになっていました。
ところで、Googleアナリティクスは、1分単位の閲覧者数の増減や、どのWebページを閲覧しているかなどがわかります。
これらを組み合わせると、誰が、どのページを、どれくらい読んでいるかまで特定できてしまいます。
不気味すぎる。
自分がやられて嫌なことは相手にするなという一子相伝の教えに従い、Googleアナリティクスの利用をやめることにしました。
ちなみにやめるのも簡単で、Googleアナリティクスページからanalyticsアカウントの削除を選択するだけです。今回は捨て垢を使ったので、Googleアカウントごと削除することにしました。
これからも好き勝手書いていく所存ですが、どうぞ飽きるまでお付き合いください。
このブログにGoogle Analyticsを導入しました
簡単だった。
手順は、Googleアカウントを作る→Googleマーケティングプラットフォームにログイン→あとはGoogle様のおっしゃる通りに。
肝心の解析はこんな感じ。
こっちははてなブログの解析。どちらが詳細かは火を見るより明らか。
はてなブログの場合は設定>詳細設定でGoogle Analytics埋め込みがサポートされている。Google側でポチポチして、番号発行されたらはてなブログの設定に入れるだけ。簡単。
埋め込みIDは公開するとまずいのか?よくわからん。
利用規約を読み読み。
アクセス数多かったらお金がかかるらしい。1000万ヒットは1000万アクセスってことかな
他のところは、まあ普通。
そういえばアカウント作るときにGDPRがどうのこうのって規約あったけど読んでない。後から読み返そうにもどこにあるのかわからない。
Googleの手先に堕ちた当ブログですが、また進捗が生まれたら報告しますので、末長くよろしくお願いします。
2020/09/04追記:Googleアナリティクスをやめました。やめる編→Google Analyticsをやめました - とわ自由帳
金剛山に登ってきました。登山編
金剛山の仙峯寺
尊いお方が、そこにはおわす
金剛山に登ってきました。
人生で2度目の登山です。
まず待ち受けるのがアホみたいに急で長い階段。
これが20分続く。ほんま死ぬかと思った。
登り切ったらちょっとした広場に出た。
城跡らしい。
そこからまた登山。
当然しんどい。
半袖で行ったから、立ち止まって水飲んでると虫が寄って来る。次の登山は暑くても長袖で行こうと思う。
しんどすぎてブレるカメラ。
木や野草は個人の財産なんですね。誰が持ってるんだろうか。地方の有力者に違いない
比較的整備されている道と電柱、電線。
こんなところでも電気が通ってるんですねえ。
あと1100メートル。この辺り息も絶え絶えだった記憶がある。前後の写真がこれしかない。
9合目で近道と楽な道の分かれ目が。楽な道を選んだら負けな気がしたので近道を選択。
登る登る。
登り切ったら広場に出た。
こんな山に50回以上も登るとか妖怪か何かか?
最後にカップラーメンを食べてフィニッシュ。
山で食うクソ高いカップラーメンは最高だ。
金剛山は1600メートルあるんですけど、帰りはロープウェイがあるから数字よりも楽なんですよね。登山は山から降りるまでが登山。下りは楽に帰れるから、登りは辛くても頑張れた。あとはロープウェイで楽々帰ってフィニッシュ。
下山編に続く。
枕なしで寝てみようとした(失敗した)
枕って不自然だとふと思った。
敷き布団はわかる。柔らかいところで寝たいし、野生生物の中には落ち葉で寝床を作る生物もいる。落ち葉ベッドの進化形だと考えると私たちの先祖も納得してくれるだろう。
掛け布団もわかる。毛皮や草の茎を編んだものが進化したものだと考えられる。ヒトは体毛を失った代わりに服を得たので、寝るときに何かをかぶるのも自然だと言える。
だが枕ってなんだ?なんで寝るときに頭を上げる必要があるんだ?自然界で枕を使って寝る生き物が一匹でもいるか?枕っていらなくね?
睡眠はあらゆる生物に必要である。それならば、正しい「寝る体勢」というものが私たちのDNAに刻まれているはずだ。そして、その「寝る体勢」に枕は必要ないはずだ。なぜなら、自然界において枕は常に用意できるとは限らないからだ。野生生物において、枕を使って寝る生き物は存在しない。それならば、私たちヒトも本来は枕なしで寝るのが自然なはずだ。
そう考え、一晩枕なしで寝ようとしてみた。
まず、枕をベッドから床に投げ捨てる。ついでに掛け布団も投げ捨ててやった。
これで、これまでベッドだと思っていたものは、ただのフカフカなマットになった。
まず、仰向けに寝転がってみる。背中一面がマットについている体勢で、腕は体と平行に。本当は横に伸ばして大の字になりたかったが、シングルベッドなのでそんな余裕はない(床で寝る勇気はなかった)。そして深呼吸。まるで大地と一体化しているような感覚を得ることができる体勢である。
だがどうにも寝ることができない。私は枕が変わると寝られないという性質ではないが、そもそも枕がないのだ。だから、寝られないのもしようがない。
なぜ寝ることができないかというと、頭が上を向きすぎているのである。頭が上を向きすぎて息がしづらい。
そもそもヒトの首の骨は前弯しているため、上を向くことが苦手なのだ。上を向いて歩こうと巷では言われているが、上を向いていたら足元が見えないではないか。私たち人間は下を向いて歩くのがむしろ自然なのである。よって、仰向けは自然な体勢ではないと判断した。
次に、横向きになってみる。腕は腹側にほっぽり出し、足も同様にした。つまり、猫が寝ている時の体勢である。猫がこの体勢で寝るのだから、ヒトもこれが自然であろうと考えていた。
しかし、どうも寝づらい。首が地面側に寄りすぎて、まるで首を傾げているような姿勢になってしまうのだ。
ヒトは猫よりも肩幅が頭部に対して広い。そのため同じ体勢をとっても首の曲がり具合がだいぶ異なるのである。
そこで、前腕を枕にしてみた。枕なしで寝るというコンセプトに反しているではないかと思うかもしれないが、野生環境でも腕枕は用意できるのでOKなのである。
だが、これもどうにも寝づらい。腕を枕にしているので当然だが、腕が圧迫されるのである。でも後から思い返してみれば、この体勢が一番寝やすかったように思う。
さて、残っている体勢はうつ伏せである。うつ伏せは腹を守る姿勢であるとも言える。野生環境ではいつどんな敵が襲ってくるかわからない。そのため、腹を守ることができるうつ伏せは野生の理にかなっているはずだ。
ふむ、寝づらい。頭の位置が定まらない。めっちゃ寝違えそう。朝起きたら首が痛くなってそう。うつ伏せ寝派の人はその辺大丈夫なんですかね。大丈夫なんだろうな。僕には無理でした。
全ての体勢を試し終えた私に、最後に残された道は床に投げ捨てた枕を拾うことだけだった(あと掛け布団も)。やはり枕があると快適だ。頭部の安定感が違う。なぜ多くの人々が枕を使うのか理解できた。もはやヒトは枕に飼い慣らされてしまっているのだ。
いや、きっと人類は初めて仰向けで寝たその時から枕を使っていたのだろう。だから私たちが枕を使うのは、不自然ではなくむしろ自然なのだ。よって私は、これからも枕を使い続ける。正しい姿勢など知るものか。私が正しいと思った姿勢が正しい姿勢だ。
「ミュウツーの逆襲EVOLUTION」を観た感想。リメイクってよりリマスターだった
今日、DVDをレンタルして「ミュウツーの逆襲EVOLUTION」を観ました。感想としては、20年前の名作はそのままにグラフィックだけ現代に合うようにしたもの、という感想でした。
EVOLTIONと題打ってはいるけど、進化したところがグラフィック以外ない。でも逆に、退化したところは全くない。どこを見ても、原作そのままでした。でもアイとアイツーはカットされてた。
無印と「EVOLUTION」を隣に並べて写してようやく違いが分かると思えるレベルで全く同じだった(やってないけど)。ポケモンの毛並みがフサフサだったとか、キャラクターが4頭身のスタンドバイミードラえもん風だったとか、細かいグラフィックを見れば違うところはあるんだけど、ストーリーは隅から隅まで一緒だし、間の取り方も演出も一緒。原作を一度見た人には見所がない・・・。アーマードミュウツーにトゲが生えたくらい?本当にそのレベルで違いがわからん。
ふむ、もしかしたらこの映画は私たちのような一度見た人に向けた映画ではなかったのかもしれない。例えば、20年前にこの映画を劇場で見た当時12歳の少年は、「EVOLUTION」公開時は32歳だ。32歳といえば、妻と子供がいてもいい歳であろう(いない人をディスっているわけではない。念のため)。子供がポケモン大好き少年で、ポケモンの映画が大好きなら、ミュウツーの映画を見たいであろう。父親も自分が子供の時に見た映画をもう一度観る気分で喜んで映画を観に行くはずだ。なるほど、この映画は父親世代とその子供に向けた映画であって、私向けの映画ではなかったのだろう。
それならば一部始終が原作と同じなのにも合点が行く。この映画を一度見た父親世代を対象としているなら、元ポケモントレーナーの父親たちに懐かしさを味わってもらうために「EVOLUTION」はどの部分も何一つ変えてはならなかったのだ。もし話の流れや演出を変えてしまうと、父親世代はそれを敏感に感じとる。違和感が生まれてしまう。その結果、映画に対する満足度が落ちてしまう。父親世代を満足させるためには、原作と全てが全く一緒である必要があったのだろう。
リメイクで余計なものをつけたされて駄作となる映画には枚挙にいとまがない。そういう意味では、何も足されず、何も引かれなかった「ミュウツーの逆襲EVOLUTION」はある意味幸運なのではないだろうか。
原点にして最高峰。公開から20年以上経った今も、「ミュウツーの逆襲」は名作であり続ける。
あけましておめでとうございます@2020
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
2019年はみなさんにとってどんな年でしたか。楽しい年でしたか、それとも苦しい年でしたか。
私にとってはなかなかに艱難辛苦な年でした。
各々思うところもおありだとは思いますが、行く年に余計な考えは置き去りにしつつ、来る年を新しい気持ちで迎えたいものです。
2020年はいいことがいっぱいあるといいなあ。
いや、いいことってのは探しにいくものであって、勝手にやってくるものじゃないと思うんだよね。ほら、「幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね」ってやつだ。
一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。
時には自分が進んでないように思えるけど、急がず焦らずゆっくり歩いて行けたらいいと思うんだ。例えば三歩進んで三歩下がるのを続けているようなものだったとしても、それはそれで少しづつ前に進んでいると思う。ほら、後ろに下がるのって歩幅が小さくなるじゃん、だから前進と後退が同じ歩数だったらそれは歩幅の差だけ前に進んでるってことになるわけだ。そう考えると、河原で小石を積むような毎日でもいいと思えるようにならないかな?
一日一歩、じっくり焦らず進めるのが大事ってことだ。自分は一日一歩をサボって後で損をするのが得意技なわけだけど・・・。
一日一歩を進めるのが苦手な自分だけど、リングフィットアドベンチャーは何とか50日目まで続けることができたし、この先も続けて行けそうな気がする。
これはお手本として一緒に運動してくれるミブリさん、声援を送ってくれるリング、コミカルで見ていて飽きない敵キャラクターたちのおかげだ。フィールドデザインはBotWを思わせる雰囲気で、ローポリゴンながら美しい。敵キャラクターもそれぞれ特性を持っていて、特性が見た目にも表れている。ミブリさんのデザインも秀逸で、マネキンのような見た目だけどちゃんと生きていると思わせる素振りを見せる。
確かWiiFitもゼルダチームがゲームを作ったんだっけ。いい仕事をするじゃないか。気に入ったよ。BotW続編も買おう(予告)。
続編いつ出るのかなー。ブレワイエンジンを使い回すだろうから、そんなに開発期間はかからないのかしら。それともそれなりに時間がかかるのかしら。
Wiiの時は2006年にWiiとGCでトワイライトプリンセス、2011年にスカイウォードソードが出たらしい(Wiki調べ)。ブレスオブザワイルドも同じくらいの時間がかかるのかな。それとも開発背景の違いからもっと短くなるのかな。これより長くなることはないと思うけれど・・・。
自分はブレワイが2番目のオープンワールドゲーでたいへん感動した。ちなみに1番目のオープンワールドゲーはFFXV。シナリオ以外はぼっち楽しかったよ。PS4初のゲームだったし。
ブレワイは触り心地が本当にいい。遊んでて手に馴染む。普通の人並みにはゲームをやってきた自信はあるけれども、この感覚は忘れられないね。最高。
フィールドが馴染む。リンクが馴染む。BGMが馴染む。雰囲気が馴染む。ブレワイの世界に自分が溶けていく感覚。これを遊んでいるととてもリラックスできる。
任天堂に一生ついていこうと思ったゲームだ。
DLCもいい。というか足跡モードがいい。自分が移動した履歴をマップで確認するモードなんだけれども、これがいつどこで何をしたか、足跡モードで移動する自分を見るだけで鮮明に思い出せる。+6兆点。
でも覇者の試練は今一つブレワイの魅力を活かせていなかったように感じた。戦闘の魅力だけを引き抜いて、それを増幅した感じ。でもブレワイの魅力ってバトルだけじゃなくて、こう雰囲気とか空気感とかそういうので総体的に感じるものだから今一つだったのかもしれない。フィールド拡張とかだったら泣いて喜んだんだけれども、まあそうはいかんわな。
続編に期待ということで。
そういえば2020年の3月にはFF7Rが発売されますな。あれはどうなんですかな。正直FFXVでスクエニのゲームには懲りているんですが・・・。シナリオ担当を確認してから買うとしますかな。
同じスクエニのゲームですが、ニーアオートマタのシナリオは良かったですな。GOTYも取ってたんでしたかな?よく覚えていないですな。
そういえば親は何で子供にゲームを買い与えるのだろうか。そう考えてググったら、実は結構子供にゲームを買わない親もいて、その理由が「自分にはゲームがわからないから」なんだよな。
やれよ、ゲーム。
理解しろよ。
わからないものをわからないまま放置する親は、わからないものをわからないまま放置する子を育てるぞ。
なんて愚痴が本人まで届くはずもなく、そもそもこの文も誰に届けるともなく、ただただ書き連ねているだけなのである。
今年もよろしくお願いします。
イカサマ。ダメ、ゼッタイ。
私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐のイカサマ師を除かなければならぬと決意した。私にはイカサマがわからぬ。クソデッキを組み、友人と紙をしばいて暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
このイカサマ師は自身のことを「ただの人です。」と称している。
違う、ただの人ではない。イカサマ師だ。TCG界で最も忌むべき存在であるイカサマ師だ。いったい何人がこのイカサマ師に涙を飲んだだろうか。いったい何人がこのイカサマ師に優勝を奪われただろうか。いったい何人がこのイカサマ師に裏切られただろうか。そのことを考えるだけで、私の中の正義が、ふつふつと湧き立つのだ。
イカサマ師がただの人なら、生真面目にルールを守り楽しく紙をしばくかの子羊達はいったい何なのだ。いや、かの子羊達こそがただの人だ。かの子羊達のみがただの人なのだ。イカサマ師はイカサマ師であり、子羊達に混じることは叶わない。一度イカサマをしたものは二度と子羊には戻れぬ。一度信号無視したものが二度と信号を守ることができないのと同じように、一度オタクになったものが二度と一般人になることができないのと同じように、一度イカサマを知ったものは二度と生真面目にルールを守る事はできないのだ。
イカサマして勝ち取った勝利の味はどうだ?生真面目に生きている子羊達から搾取した勝利の味はどうだ?きっとさぞうまかろうな。
サマに負けた子羊達の気持ちを考えたことはあるか?慕ってくれていた人達の気持ちを考えたことはあるか?自分のことだけを考えてただひたすらにイカサマを働くTCGライフは楽しかったか?きっとさぞ楽しかったろうな。
そういえば、「イカサマ紛いの行為ってのは非公式な舞台では相当数あると思ってる」なんて書いてたな。それはきっと自分の周りだけの話だろう。イカサマ師にはイカサマ師が集まってくるものなのだ。類友の法則はどんな場所でも常に働く。全く分相応だ。
いじめっ子はいじめてたことを忘れるなんてよくある話だ。憎まれっ子世にはばかる、こんなクソみたいな世界に祝福を。
まあ私はサマ師に会ったことないんですけどねー。
下の方余ってるので、サマについて私が思っていることを書いていくわ・・・。
まず、サマができる環境ならそれをする人は一定数現れるわ・・・。どんなに民度が良くてもね・・・。イカサマができる環境でそれをする人を0にするには人口を0にするしかないわね・・・。サマ師を責めてもイカサマは減らないの・・・。
本当にイカサマをなくしたいと考えるなら、イカサマができないような仕組みを考えるしかないわ。例えばDCGね。DCGならイカサマは絶対起こらないわ。というか仕組み的に起こりようがないわね。
プレイヤーへの道徳教育も有効ではあると思うけど、それをやる場を設けるのが大変ね。コストも誰が負担するのか不明だわ。そもそもサマ師はそんな講習会には来ないわね。でもこれからサマになる子羊達を正しく導くのには有用だとは思うけどね。
やっぱり一番効果があるのはシンプルに出禁ね。そういえばデュエマは公式でプレイヤーを出禁にしてたわね。さすがに体力のあるゲームは行動力があるわ。紙しばく民にモラルもへったくれもあったもんじゃないんだから、カスどもは容赦なく出禁にすればいいのよ。まあ他のゲームに転々と移住する遊牧民になるだけだと思うけどね。
繰り返すけど、サマ師は悪くないんだ。いや、悪いことには悪いんだけどそれを許す制度設計が根本の問題ってことが言いたいわけ。レッドゾーンを倒しても第2第3のレッドゾーンが襲ってくるじゃん、要はそれと同じでイカサマ師を倒しても第2第3のイカサマ師が生まれるだけなんだよ。そういうところを根本から潰さないと結局は解決しないんだよね、こういう問題は。