とわ自由帳

フリースタイル自由帳。

イカサマ。ダメ、ゼッタイ。

私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐のイカサマ師を除かなければならぬと決意した。私にはイカサマがわからぬ。クソデッキを組み、友人と紙をしばいて暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

このイカサマ師は自身のことを「ただの人です。」と称している。

違う、ただの人ではない。イカサマ師だ。TCG界で最も忌むべき存在であるイカサマ師だ。いったい何人がこのイカサマ師に涙を飲んだだろうか。いったい何人がこのイカサマ師に優勝を奪われただろうか。いったい何人がこのイカサマ師に裏切られただろうか。そのことを考えるだけで、私の中の正義が、ふつふつと湧き立つのだ。

イカサマ師がただの人なら、生真面目にルールを守り楽しく紙をしばくかの子羊達はいったい何なのだ。いや、かの子羊達こそがただの人だ。かの子羊達のみがただの人なのだ。イカサマ師はイカサマ師であり、子羊達に混じることは叶わない。一度イカサマをしたものは二度と子羊には戻れぬ。一度信号無視したものが二度と信号を守ることができないのと同じように、一度オタクになったものが二度と一般人になることができないのと同じように、一度イカサマを知ったものは二度と生真面目にルールを守る事はできないのだ。

イカサマして勝ち取った勝利の味はどうだ?生真面目に生きている子羊達から搾取した勝利の味はどうだ?きっとさぞうまかろうな。

サマに負けた子羊達の気持ちを考えたことはあるか?慕ってくれていた人達の気持ちを考えたことはあるか?自分のことだけを考えてただひたすらにイカサマを働くTCGライフは楽しかったか?きっとさぞ楽しかったろうな。

そういえば、「イカサマ紛いの行為ってのは非公式な舞台では相当数あると思ってる」なんて書いてたな。それはきっと自分の周りだけの話だろう。イカサマ師にはイカサマ師が集まってくるものなのだ。類友の法則はどんな場所でも常に働く。全く分相応だ。

いじめっ子はいじめてたことを忘れるなんてよくある話だ。憎まれっ子世にはばかる、こんなクソみたいな世界に祝福を。

 

まあ私はサマ師に会ったことないんですけどねー。

下の方余ってるので、サマについて私が思っていることを書いていくわ・・・。

まず、サマができる環境ならそれをする人は一定数現れるわ・・・。どんなに民度が良くてもね・・・。イカサマができる環境でそれをする人を0にするには人口を0にするしかないわね・・・。サマ師を責めてもイカサマは減らないの・・・。

本当にイカサマをなくしたいと考えるなら、イカサマができないような仕組みを考えるしかないわ。例えばDCGね。DCGならイカサマは絶対起こらないわ。というか仕組み的に起こりようがないわね。

プレイヤーへの道徳教育も有効ではあると思うけど、それをやる場を設けるのが大変ね。コストも誰が負担するのか不明だわ。そもそもサマ師はそんな講習会には来ないわね。でもこれからサマになる子羊達を正しく導くのには有用だとは思うけどね。

やっぱり一番効果があるのはシンプルに出禁ね。そういえばデュエマは公式でプレイヤーを出禁にしてたわね。さすがに体力のあるゲームは行動力があるわ。紙しばく民にモラルもへったくれもあったもんじゃないんだから、カスどもは容赦なく出禁にすればいいのよ。まあ他のゲームに転々と移住する遊牧民になるだけだと思うけどね。

 

繰り返すけど、サマ師は悪くないんだ。いや、悪いことには悪いんだけどそれを許す制度設計が根本の問題ってことが言いたいわけ。レッドゾーンを倒しても第2第3のレッドゾーンが襲ってくるじゃん、要はそれと同じでイカサマ師を倒しても第2第3のイカサマ師が生まれるだけなんだよ。そういうところを根本から潰さないと結局は解決しないんだよね、こういう問題は。