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「東大教授が教える独学勉強法」を読んだ感想

 感想といっても、実は最初の方はあまりちゃんと覚えていないのですが、とりあえず一通り読んだ(というより、目を通した)というマイルストーンをここに建てておきます。
 思うに、これは自分が実践してきた勉強法そのものではないかと考えるのです。
 勉強とは「つらく、苦しいもの」だと考えられがちです。しかしそれは強制的に勉強させられるときだけで、本当の勉強はもっと自由で、楽しいものなのです。というか勉強に限らず、他人から強制されて何かをするというのは例外なく苦痛です。たとえそれがどんなに自分の好きなことであっても。さらに勉強の意味も本来はもっと拡張できるもので、学校の勉強に限らず、例えばゲームに勝ちたくて知識を深めたりトレーニングをするのも勉強の一種ではないかと思うのです。そこをこう、矮小に考えすぎているような風潮がある。勉強というのは机に向かって、蛍光灯をつけて、本を開いてそこに書いている内容を一字一句漏らさないように暗記することだと考えられている風潮がある。でも本当の勉強ってのはそうじゃないんだと。本当の勉強はもっと好きにやっていいし、もっと気軽にやっていいし、もっと楽しくやっていい。勉強は自由で楽しいものなんだということをこの本は教えてくれるような気がするのです。
 かつての人生はレールが敷かれていて、そのレールの上をどれだけ脱線しないように走るかというゲームに例えられたこともありました。もちろん以前がイージーゲームだったと言いたいわけではありませんが、これからの人生は自分でどこにレールを敷いてどんな道を走るか自分で決めると言った側面が大きくなってくると思います。特に今は第四次産業革命の真っ最中ともされています。いろんな職業の形態が変わり、ある職業は消え、ある職業は生まれる世の中で、誰が自分の人生にレールを敷いてくれるでしょうか。自分のゆく道は自分で決めなければならないのだと思います。そんな時代の中で必要とされる能力は、自分が何を学ぶかを自分で決めて、自分で考えていける能力だと思うのです。たぶん。
 独学というのは、自分で勉強をするという姿勢です。大学生という小中高と与えられたことを勉強してきた私にとって、自分で学ぶことが初めて求められるこの環境を導いてくれる一冊でした。

(ここまで感想、以下怪文書

これで大体950字。高校生の読書感想文コンクールが2000字以内なので、あと半分といったところでしょうか。
いやはや、読書感想文って面倒くさいですね。何が面倒くさいって、まずいい子ちゃんにしてなきゃならないし、なんか感動したみたいなこと書かなきゃいけない風潮あるし、文字数制限もあるし、なんか文字数制限あったらそれギリギリまで書かなきゃいけないって雰囲気出てるし。2000字以内の読書感想文で400字原稿一枚先生に出したらもっと書けって言われるんでしょ。そんなでねーーーよ感想なんか。感想なんて「おもしろかった。」で十分でしょうが。しかもわざわざ書いた読書感想文を大人が評価するんですってよ。ファック。そんなんだから読書嫌いの子供が増えるんだよ。まず読書嫌いってなんだよ。面白いじゃん本読んだら。面白くなくしてるのは無理矢理読ませようとしてるからだろ。こう、なんというか、そういうところが気に食わないんだよね。そんでいい子ちゃんにしてなきゃならんのもなんか気に入らん。読書感想文なんだからさ、自分の感想書けばいいじゃん。例えばエヴァQ見て「わけわからんかった」っていったらみんな理解するでしょ?でも読書感想文に「わけわからんかった」って書いたらいかんのよ。いや、厳密には書いたことないからいかんのかどうかはわかんないんだけど、とにかくいかんのよ。しかも作者の主張に反論するのも良くないし。
ボロクソに読書感想文をディスっているが、そもそもこのディスりは実態にあっているのだろうか。私は読書感想文入賞作品を探してみた。どこやねん。そもそもないやないか。なんで入賞者リストの隣に読書感想文がないんじゃボケが。なんで入賞リストに入賞者しか載ってないんじゃ。テニスの大会やっとんとちゃうぞ。人に賞あげてるんじゃない、作品に賞をあげてるんだという意識がたりてないんとちゃうの。そんな舐めた姿勢で何が総理大臣賞じゃ。そもそも人が好きで書いた文章をなんで評価されんといかんのじゃ。お前お前お前。次生まれ変わった時は鬼滅の刃で読書感想文書いたるからな覚悟しとけよ。
そもそも読書感想文の、なんか本に感動しなきゃいけない風潮が苦手だったし、指定された本を読まなきゃいけないのも苦痛だった。おのれ読書感想文。キレすぎて読書感想文を滅ぼすマシーンになりそう。それもこれも本を読んで、なんか記録残したいなーって思ったからだ。やはり読書は悪。
読書についてだけど(唐突)、読書を読書たらしめているのは、読書という行為が本と読んでいる人とのコミュニケーションであるということだと思うのよ。こんなこと言うと納得してくれる人も、お前何いってるんだ?って人もいるだろうけれども。お前何言ってるんだ用に多少説明しとくと、本には筆者の伝えたい内容が詰まってるわけよ。論説ならダイレクトに、小説ならふんわりと。それをどう受け取って自分のものにするかってのが読書の本質だと思うわけね。だから、片道切符ではあるけれども、これはある意味会話のキャッチボールなわけよ。会話とはかなり質の異なったコミュニケーションだけれども。どうかしら、わかってくれたかしら。今はわかってくれなくても、いつかわかる日が来ると信じているわ。
今日はこんなところで終わり。みなさんお楽しみいただけたでしょうか。半分以上脱線でごめんなさいね。こんな私のオナニーに付き合ってくれてありがとうございます。読者の皆さんがいてくれるからこそ私は文章を書くことができてます。嘘です。誰も読んでなくても今後も怪文書をネットの海に放流し続けます。

勉強ってのは、こう、もっとらくじゃないといけないんだ。
最近、切にそう思います。